日越交流における林邑僧仏哲の事跡

大西和彦

はじめに

anh-011本稿の目的は、中部ベトナムに栄えたチャンパー王国(192~1832)の林邑国時代(192~756)末期における仏僧で、日本に渡来した仏哲の事跡を通じて、8世紀のチャンパー仏教の一斑を考察することである。

仏哲は、736年に師の南インドの僧菩提僊那と共に日本へ渡来した。奈良の大安寺でサンスクリット語の教授を行い、742年には東大寺大仏開眼法会において舞をもって供養した。この舞は林邑楽と総称され、日本雅楽の重要な一部となり現在まで伝えられている。

日本の近代学術界では、仏哲について100年以上も前から論じられてきたが、その出身地を北インドとする説がある。一方、ベトナムでは仏哲の存在は知られてこなかった。そこで、本稿では、仏哲について以下の3点から論述することにする。

[1] 仏哲に関連する先行研究の回顧と問題点の指摘。

[2] 仏哲が林邑国の人、つまりインドシナ半島出身であることの再検証。

[3] 仏哲が日本で行った事績を通じた、8世紀のチャンパー仏教の一斑 の考察。

1. 先行研究の回顧と問題の所在

まず、ここでは日本とベトナムの学術界における主な関連業績を概観し、考察すべき問題点を提起したい。

1.1. 日本における仏哲の研究

近代日本学術界は仏哲の事跡を早くから注目し、1907年には高楠順次郎氏が長大な論文「奈良朝の音楽殊に「林邑八楽」について」[高楠:1978/1907]を発表した。高楠氏は主に林邑楽を詳細に論ずると共に、景雲4年(770)に菩提僊那の弟子修栄が撰述した『南天竺波羅門僧正碑並序』1や、元享2年(1322)に、臨済宗の僧虎関師練(1278~1346)が朝廷に上程した日本初の仏教通史『元享釈書』のような史料など仏哲関係の基礎情報の提示がある。さらに、仏哲の出身地の仏教事情について、唐の義浄(635~715)が天授2年(691)に著した『南海寄帰内法伝』巻一の一部を、「(前略)南二至占波一、即是臨邑、此國多是正量、少兼二有部一。[(前略)南して占波に至る、即ち是れ臨邑なり。此の國多くは是れ正量にして、少しく有部を兼ねたり。(後略)]」と引用し、「正量部、説一切有部共に仏教の部派である(下略)」[ibid]と述べ、7世紀における当地では、正量部、説一切部という部派仏教つまり上座部仏教が盛んであったと分析している。

近年では、1984年に富田春生氏が「雅楽の中の仏哲」[富田:1984]を論述している。富田氏の論考も論考の過半を林邑楽の考察に当てているが、嘉承元年(1106)成立『東大寺要録』引用の『大安寺菩提伝来記』に見える仏哲が行った呪術について触れている。

以上のように、日本において仏哲は雅楽に関連して言及されることが少ない。しかし、1964年に田中於菟彌氏が、仏哲自体に焦点を当てた論文「林邑僧仏哲について」[田中1964]を発表し、1991年に刊行された同氏の専著『酔花集 インド学論文・訳詩集』においても同論文を再録されている[田中1991:623-634]。

田中氏は、『大安寺菩提伝来記』や『扶桑略記抄』に仏哲の出身地として瞻婆国-林邑国-北天竺が重複して書かれていることに着目し、林邑国が北天竺であると推測している。つまり仏哲の出身地は長く言及されてきた中部ベトナムではなく、北インドということになる2。しかし、田中氏が上記のような文脈の捉え方だけから、林邑国が北天竺であると決めるのは論理に飛躍があり、その間の実証には検討の余地がある。

1.2.ベトナムにおけるチャンパー仏教史研究

ここでは、チャンパー仏教にかかわるベトナム仏教史研究を回顧し、その過程から仏哲研究の意味を考たい。

近代ベトナム人研究者によって最初に纏められたベトナム仏教史の論文は、いずれも北部ベトナム仏教から書き起こされる。しかし、中部ベトナム仏教自体が執筆対象に選ばれないので仏哲への言及も無い。

この傾向は、著名なチャン・ヴァン・ザップ氏の「起源から13世紀までの安南仏教」[Trần Văn Giáp 1932]、仏僧によりベトナム語で書かれた近代ベトナム仏教史の嚆矢とされるティック・マッテー師の『越南仏教史略』[Thích Mật Thể 1943]、政治経済史なども含めた広い視点からベトナム仏教史を再構成したグェン・ラーン氏の『ベトナム仏教史論』[Nguyễn Lang 2000/1973, 1978, 1994]、統一後の国家研究機関から初めて刊行された哲学研究院編纂の『ベトナム仏教史』[Nguyễn Tài Thư 1991]にいずれも共通している。

近年の南部仏教研究界では、レー・マイン・タット氏の浩瀚な『ベトナム仏教史』全7巻が刊行されつつある。しかし、起源からその6世紀までのベトナム仏教を扱った同書第1巻[Lê Mạnh Thát 1999]も、やはり中部ベトナム仏教への言及が見られない。またグエン・ヒェン・ドゥック氏の中・南部仏教史の専著『ダーンチョーン仏教史』[Nguyễn Hiền Đức 1995]も執筆範囲は阮氏広南国(1558~1777)以降を対象とし、それ以前の仏教史には全く言及がない。

わずかに2001年に出版されたティック・ハーイ・アン と ハー・スアン・リェム両氏の 共著『フエ地方仏教史』に、いくつかのチャンパー仏教に関する遺物・遺跡ならびに文献資料を紹介している。まず、3世紀または4世紀頃の成立というヴォーカインの碑文に仏教思想を伺わせる「衆生に対する憐れみと慈悲」という一節があること記している[Thích Hải Ấn, Hà Xuân Liêm 2001: 28]。ついで『隋書』の「人は皆仏を奉じ、文字は天竺と同じ」3とある記事ならびに既述の義浄の『南海寄帰内法伝』の記事として「チャンパーは熱心な仏教国である」4という箇所を引用している。そして、チャンパー王インドラヴァルマン二世(IndravarmanⅡ)が築いた都インドラプーラ(Indrapura)の遺構ドンジュオン(Đồng Dương)遺跡(ダナン市南方60km)からは仏教の僧院跡や銅製釈迦像などの仏教関係遺物が多数発見されたことを述べている[op.cit. 28-31]。そして、『フエ地方仏教史』は、インドラヴァルマン二世をチャンパー王国で仏教を信仰した唯一の王と評価する[op.cit. 28]。この王が立て、遺跡の発掘者ルイ・フィノー(Louis Finot) 氏が「ドンジュオンⅠ」と命名した石碑には、西暦の875年に相当する年代が記されている。この碑文に観音菩薩への讃仰が刻まれているので、9世紀のチャンパー仏教は大乗仏教であったことが示されている[op.cit. 32]。なお、この碑文の内容は、本稿3-3で再び取り上げたい。

さらに『フエ地方の仏教史』は、クアンナム省アーンターイ村(Làng An Thái, tỉnh Quảng Nam)から発見された西暦の902年に相当する年代を記す「アーンターイ碑文」[Huber 1911: 277-282]を取り上げ、そこに「金剛手菩薩(Vajrapani)」と「金剛薩埵菩薩(Vajrasatva)」という密教の信仰対象が刻まれているので、当時のチャンパー仏教が密教の影響を受けていたことを指摘している[op.cit. 2001: 33-34]。2006年にはグエン・シーン・ズイー氏が、論文「アーンターイ碑文とチャンパー仏教」で再び同碑文に見える密教の教理を論じている[Nguyễn Sinh Duy 2006: 446-453]。しかし、この論文末尾で同氏は「ドンジュオンⅠ碑文」も含めて、こうした碑文の大乗仏教を示す内容と、義浄の『南海寄帰内法伝』の上座部仏教記事とを比較して、チャンパー仏教は大乗なのか上座部なのか、と疑問を提示している[ibid: 456]。

最近のチャンパー仏教史の研究としては、2014年にチャム文化研究保存ユネスコセンターのクアン・ヴァン・ソーン氏が発表した論文「資料から認識にいたるチャンパー仏教」がある[Quảng Văn Sơn 2014]。同氏は、これまでベトナム仏教研究者がチャンパー仏教史に十分注意を払ってこなかったことを執筆の動機とし、3世紀から10世紀までのチャンパー仏教を論じている[ibid. 46]。内容は、関連する文献史料、碑文、遺物、遺跡を整理したものであって、既述の『フエ地方の仏教史』と重なる所が少なくない。

以上を概観すると一つの大きな問題点は、グエン・シーン・ズイー氏も述べているように、7世紀に義浄がチャンパー仏教を上座部仏教と記録しているけれども9世紀後半期の「ドンジュオンⅠ碑文」や10世紀初頭の「アーンターイ碑文」に刻まれた大乗仏教の内容と対立していることである。ではこれら7世紀と9世紀の間において、8世紀のチャンパー仏教は、どのような状況であったのかが問題となる。しかしながら、『フエ地方の仏教史』とクアン・ヴァン・ソーン氏およびグエン・シーン・ズイー氏の論文にも、8世紀のチャンパー仏教への言及は無い。管見の及ぶところでも、中国の文献史料もチャンパーの碑文も8世紀のチャンパー仏教について記録したものは見当たらない。

このような歴史の空白を埋めるには、8世紀の仏哲に関する日本史料の活用が不可欠となると思われる。

小結

以上の先行研究を省みれば、近代日本学術界では、20世紀初頭から仏哲への言及が行われてはいるが、主に日本の雅楽形成に彼が与えた影響を論じられてきた。一方、仏哲の出生地がベトナムではなく北インドであるという説が提起されている。しかし、その論証には検討の余地がある。

一方ベトナムでは、チャンパー仏教史の研究自体が開始されたばかりであり、また中国とベトナムの史料に仏哲が現れないという制約がある。そのためベトナムの学界において、この仏僧は長く言及されてこなかった。しかし、既に述べたように中国・ベトナム史料だけでチャンパー仏教を考察した場合、7世紀と9世紀の間に空白が残る。この点で、その8世紀に日本史料を用いて仏哲の行状を考察することは、この空白時期のチャンパー仏教の一斑を知る手がかりになるに違いない。

そこで本稿では仏哲の出生地を再検討すると共に、その仏教思想、舞楽について私見を述べたい。

2.仏哲はインドシナ地域の出身者か否か

本稿2-2で述べるように、筆者は、仏哲をインドシナ半島出身者と考えている。しかし既述のように、仏哲の出身地をインドシナではなく、北インドとする田中於菟彌氏の説がある。そこで田中説をたどり、その内容を考察したい。

2.1.田中氏の仏哲がインドシナ僧ではなく、北インド僧であるという説

田中氏は、まず仏哲について最も詳述されていると同氏が評価する日本の史料『大安寺菩提伝来記』に、「瞻婆国僧此云林邑北天竺国仏哲」とあるので「これによると仏哲は瞻婆国の僧で北天竺の人である。」[op.cit. 1991: 39]と述べている。次いで「『婆羅門僧正碑』は「以大唐開元十八年十二月十三日、與同伴林邑僧仏徹—」と記しているだけである。」[ibid]と述べ、引き続き「『扶桑略記抄』には「北天竺国林邑国仏誓和尚—」とありこれらの記録によると、林邑国は北天竺と考えなければならない。」[ibid]と述べる。つまり田中氏は、『大安寺菩提伝来記』、『婆羅門僧正碑』、『扶桑略記抄』の三史料を取り上げて、仏哲をベトナムではなく北インドの出身という説を提起した。

次ぎに田中氏は「林邑は一般に現在のヴェトナム(安南)地方にあった国名で古くはChampā(占城、占婆、瞻波)として知られ、従来林邑僧仏哲もインドシナの僧と考えられ、彼の伝えた林邑楽もこの地方の楽舞と考えられている」[ibid]と従来の説も提示している。そして、「同名の国がインドとインドシナの二ヶ所に存在したことが知られている」とし、「インドの瞻波国」について『中阿含経』(第九、二九、五二等)に「一時仏遊瞻波。在恒伽池辺(一時、仏は遊瞻波に遊ぶ。恒伽池の辺(ほとり)に在り)5」、『法顕伝』(四五)に「順恒水東下十八由延、其地坼有瞻波大国(恒水に順(したが)いて東に下ること十八由延、其地は坼(ひら)きて瞻波大国有り)」、『大唐西域記』(一〇)に「瞻波国周四千里、国大都城、北背歹克伽河(瞻波国は周四千里、国に大いなる都城あり、北のかた歹克伽河を背にす)」とある記事を引き、「ガンジス河の南岸、現在のBhāgalpur地方にあった国名」[ibid]と同定する。さらに田中氏は「ただインドシナのチャンパー国は占波、占坡、瞻波、林邑」などと中国で呼ばれたのに対し、インドのチャンパー国は瞻波(或いは瞻波大国)とのみ写されている。」[ibid]と読者の注意を喚起している。

そして、田中氏は「そこで『大安寺菩提伝来記』に、仏哲の出生地が「瞻婆国僧此云林邑北天竺国仏哲」と記している点に注意してみたい。」[ibid]と述べ、仏哲が中国あるいは日本で、その生国を問われた時、チャンパー国すなわち北インドの生まれと聞いた人が疑いもなく「チャンパーは瞻波すなわち林邑だと思ったのではなかろうか」[ibid]と類推している。その後、田中氏は「当時の中国人あるいは日本人のインドや南海地方に関する地理的知識が極めて漠然としていた」[op.cit.40]と断りながらも、次いで「しかし、いかに未知であってもインドシナの国名を北インドと記すとは考えられない。」[ibid]と推断している。以上のような論理に基づき「仏哲はインドシナの林邑の僧ではなくして、北インドの瞻波国の人と解さなければならないだろう。」[ibid]と結論づけた。

2.2.田中氏の説への反駁

この田中氏の説について、筆者は史料選択の問題と、8世紀当時の日本人の地理認識という2点から反駁し、仏哲が北インドの人ではなく、インドシナ半島の出身であることを論じたい。

2.2.1.史料選択について

まず田中氏が仏哲の出自に関して、成立年代の異なる『大安寺菩提伝来記』、『婆羅門僧正碑』、『扶桑略記抄』の三史料を並列に取り上げていることは妥当ではない。田中氏が「最も詳しい」と依拠し、仏哲の出生地が「瞻婆国僧此云林邑北天竺国仏哲」と瞻婆国僧すなわち北天竺国仏哲であると記されていることを立論の基礎に置いた『大安寺菩提伝来記』は、1106年(嘉承元年)成立の『東大寺要録』に引用された成立年次不明の文献である。また同じく「北天竺国林邑国仏誓和尚—」と北天竺と林邑国が併記された『扶桑略記抄』は応徳元年、1084年頃に成立している。

しかし、田中氏が単に「(前略)林邑僧仏徹」と記しているだけである」と述べる『婆羅門僧正碑』正確には『南天竺婆羅門僧正碑并序』は、本稿1-1で言及したように770年(神護景雲4年)に撰述された史料である。その成立は先の2史料と比べると最も古く、ほぼ仏哲が活動していた同時代史料と言えよう。この碑文には北天竺など他の地域名の併記がなく「林邑僧仏徹」とのみ記されている。改めて、上記の3史料を勘案すれば、後代の史料内容を積極的に立論の基礎に採用するより成立年代が古い史料の内容を重視すべきである。従って、同時代史料の『南天竺婆羅門僧正碑』には仏哲を「林邑僧」とのみ記されているので、少なくとも当時の菩提僊那に近しい人が仏哲の出自を「北天竺」または「瞻婆国」ではなく、「林邑」と認識していたと考えるのが最も妥当と思われる。

2.2.2. 8世紀の日本人におけるインド・東南アジア方面の地理認識

田中氏は、仏哲渡来時の「中国人6や日本人の地理的知識が極めて漠然としていた」[op.cit:40]と述べる一方で、「いかに未知であってもインドシナの国名を北インドと記すとは考えられない」[ibid]と力説する。しかし、地理知識が極めて不明瞭であるにもかかわらず、インドシナの国名と北インドだけは明確に判別できるということになり論理が矛盾する。

また田中氏は想像して、「仏哲が初めて中国或いは日本に到着した時、その生国を問われ、チャンパー国の生まれ、すなわち北インドの僧であると考え、それを聞いた人が、何の疑いもなくチャンパーは瞻波すなわち林邑だと思ったのではなかろうか。」[op.cit.39]という。この「その生国を問われ、チャンパー国の生まれ、すなわち北インドの僧であると考え、それを聞いた人が、(下略)」の文章には主語や述語が不十分なので文意がわかりにくい。

従って、当時の日本人がインド・東南アジア方面の地理情報を、どのように把握していたのかを再確認する必要がある。そこで、当時の日本人がベトナムに位置する林邑と、北インドにも位置する瞻波国の区別を促したであろういくつかの情報源について再考したい。

たしかに田中氏が推測するように、8世紀前後におけるインド・東南アジア方面の地理認識は、人や地域によって差異があった。たとえば、日本の史書『続日本(しょくにほん)紀(ぎ)』の天平11年(739)11月3日の条文は、天平5年(733)に唐へ向かい7年を経て日本へ帰国した遣唐使の平群(へぐりの)広(ひろ)成(なり)の足取りを詳述している。その中で平群広成は、天平6年(734)10月に唐から帰還途中に遭難し「崑崙(こんろん)国(こく)」に漂着したという記事がある。中国の史書『文苑英華』巻471、・翰林制詔・蕃書4に掲載された唐の玄宗皇帝の「勅日本国書(日本国に勅(みことのり)する書)」によれば平群広成等らの船は「漂至林邑国(漂いて林邑国に至る)」と記されている。これによれば、当時の中国ではインドシナ半島に位置する林邑国について認識があったが、日本人は「崑崙国」という漠然とした地理認識しか持っていなかったようである。後代に編纂された『続日本紀』には、崑崙国は林邑国であるという地名確認の精度は高められていないので、日本の貴族層には林邑国という認識は薄かったかもしれない。

次に、仏哲と直接関係したことが多かったであろう日本の仏教界について目を向けたい。日本仏教界のインド・東南アジア方面の地理情報を得る有力な手段の一つとして、地理が記された経典を通じて摂取した関連情報があったと思われる。そこで、そうした経典の日本伝来時期が、いつ頃日本僧が海外の地理情報を得たのかを判断する一つの基準になるに違いない。

ちなみに石田茂作氏の「奈良朝現在一切経疏目録」によれば、本稿2-1で述べたように北インドの瞻波と付近の地理について言及した『中阿含経』(目録No.678)は天平5年(733)、『法顕伝』(目録No.2788)は天平11年(739)、『大唐西域記』(目録No.2806)は天平11年(739)、『大唐西域記』と同内容の『西域記伝』(目録No.2807)は天平12年(740)に日本へ伝来している7

一方、既に本稿1-1でも一部言及したように、高楠順次郎氏が訓点と地名考証を付けて引用する義浄の『南海寄歸内法傳』巻1に見える林邑の関連部分は、以下のように記されている。

「驩州(かんしゅう)(いまの河(ハ)靖(タン)州の徳寿(Ductho)で凡そ北緯十八度に至る)正南、歩行可レ余二半月一、若乗レ船纔五六潮、即至二匕景一(Ti-kinh)、南二至占波一、即是臨邑、此國多是正量、少兼二有部一。西南一月至二跋南国一、旧云二扶南一、先是身果国、人多事レ天、後仏法盛流、」[高楠 1978/1907:344](「驩州の西南、歩み行くこと半月余りなるべく、若(も)し船に 乗れば纔(わずか)に五六潮にして、即ち匕景に至り、南のかた占波に至る。即ち是れ臨邑なり。此の国は是れ正量多く、少しく有部を兼ねたり。西南のかた一月にして跋南国に至る。旧(もと)は扶南と云う。是より先は身果国にして、人は多く天に事(つか)え、後に仏法盛流を盛んにす。」[本稿筆者訓読])

このように義浄は、中国南部から東南アジアへ南下する行程上の記述で「占波、即ち是れ臨邑」と、まず北インドと中部ベトナムのどちらにもある「占波:チャンパー」を、まず取り上げている。次いで地域をさらに限定し、ここは臨邑であると再確認している。その直前に記された驩州は、高楠氏が同定するように、現在の中部ベトナム北境ハ・ティン省に相当する。その驩州から比較的近距離の匕景は、中部ベトナム中境クアンビン省に同定されている[陳佳榮他 1986:111、177]。そして、この匕景を南下して臨邑に至る行程があった。さらに南下すればクメール人の住居するベトナム南部からカンボジアに相当する扶南[op.cit.402-403]へ至る。従って、驩州・匕景と扶南国の間に存在する「臨邑」が、ベトナム中部に位置する地域を指すことは明らかである。

このように林邑の地理環境を明記した『南海寄帰内法伝』は、石田茂作著「奈良朝現在一切経疏目録」の2810〜2813番に関連の記述があり、天平11年(739)以前に同書は日本へ伝来したことが確認できる8。同書の伝来時期は、天平8年(736)に仏哲が渡来し、天平14年(742)に東大寺大仏開眼供養会で舞踏を行うなどの活動をした時期と重なっている9

仏哲の出身地を考察する際、こうした新たな地理情報を含んだ仏典の伝来が仏哲渡来のほぼ同時代に進行していたことを顧慮すべきだと思われる。特に、当時の日本人とりわけ仏僧たちが、ちょうど同じ頃に伝来した『南海寄帰内法伝』という外国情報に接触した可能性も考慮しなければならない。これらの状況から、仏哲渡来の前後の時期に、北インドの瞻波・占波とインドシナ半島の林邑の両方について、新たな地理情報が少なからず日本にもたらされていたことになる。そのため判別しにくい遠隔地の地名呼称が重なっていたにも係わらず、北インドの瞻波・占波とは明確に区別し、異なった場所に位置するベトナムの林邑国の存在を、より正確に知っていた8世紀の日本僧もいたと思われる。

実際に仏哲と行動を共にした菩提遷那の直近の弟子修栄は、8世紀に撰述した『南天竺波羅門僧正碑並序』8を、以下のように記している。

時に聖朝(聖武天皇)は好を通ぜんとして、使いを唐国に発す。使人の丹治比真人広成と学問僧理鏡は、(菩提僊那の)芳しき誉れを仰いで、共に東のかた(日本)に帰られんことを要請す。僧正はその懇(ねんご)ろな志に感じて、請いを辞すること無し。大唐の開元十八年(730)十二月十三日に、同伴の林邑の僧仏徹と唐国の僧道珮と共に船に随(したが)い海に泛(うか)び、(中略)天平八年(736)五月十八日、筑紫の太宰府に到るを得たり10

以上のように、この同時代史料には「林邑僧仏徹」と、仏哲の出身地を瞻波・北天竺の併記をせず、唯一「林邑」とのみ記したことに注意すべきである。

このことは、伝来仏典を通じた新たな地理情報に加えて、仏哲本人からの情報を直接に得た日本僧が、仏哲の出身地をインドシナ半島の林邑国として識別していたことからも肯定されよう。

小結

田中氏が指摘したように、情報の混乱によって仏哲の出身地を瞻波・北天竺・林邑と重複した『大安寺菩提伝来記』のような後代の1106年(嘉承元年)に成立した『東大寺要録』に引用された記述はある。しかし、この地名の重複記事こそ、8世紀中期に仏哲が日本で活動した時期から12世紀初期『東大寺要録』成立までの300年前後の過程で起きた情報の錯綜による地名の混載に違いない。そして繰り返すが、仏哲と同時代史料であり、彼に近しい修栄が著した『南天竺婆羅門僧正碑并序』には地名の混載がなく「林邑僧」とのみ書かれている。

これらを考え合わせると、当時の日本人とりわけ仏僧は、仏哲を北天竺や北インドが共在する瞻波の出身ではなく、インドシナ半島に所在する林邑の人だと明確に認識していたと考えるべきである。このことは仏哲が日本に伝えた舞楽の総称は、インドとインドシナ半島に両方とも存在してまぎらわしい瞻波や占婆の地名ではなく、林邑楽として伝えられてきたことでも窺い知れる。

従って、本稿筆者は、やはり仏哲をインドシナ半島に位置した林邑国出身の僧であると推断する。

3.日本における仏哲の事跡の考察

以下、日本における仏哲の事跡について、①密教僧としての事跡、②悉曇(サンスクリット語)教育、③舞踏と仏教の戒律について述べる。

3.1.仏哲の密教僧としての事跡とその周辺

『東大寺要録』巻三供養章所引の『大安寺菩提傳來記』に、生ける文殊菩薩を求めて菩提僊那が震且つまり中国の五台山へ赴こうとした時、仏哲と出会ったことが述べられた後、仏哲に関する神秘譚が以下のように記されている。

この菩薩震且の五台山に居住すと。彼の山に尋ね詣でんと欲す。このころ

北天竺の仏哲忽(たちま)ちに生れ到来する也。此の僧少(わか)くして仏教を学び、呪術を妙(たくみ)に閑(なら)い、神(すぐれた)理(てんせい)もて標(あ)具(ら)わし、方機(ふしぎなひみつ)を領(さ)悟(と)れり。如意珠を求めんと欲し、船を大海に浮べ、以って龍王を呪す。龍王は呪力に降伏し件の玉を持出し告げて白く、汝の手印を放てば此の玉を授与せんとす。即ち竜の言に順い手印を欻(にわか)に放せば、大風忽ちに発(おこ)り、南天竺に吹き寄せらる。婆羅門を以って吾が師と為し、共に流沙を渉り、遥に嶮路を踏み、大唐に向 い、五台山に到る11

ここには、まず仏哲が幼少時から仏教を学び、呪術の行使に優れていたことが述べられている。そして、「大海」で龍王を呪力で圧倒したあと、龍王にだまされて「手印」を解除したので、龍王が起こした暴風により南インドへ漂着して菩提僊那と出会ったという挿話が続いている。

ここで注目すべきは、仏哲が仏教を学び、また手印を用いる呪術を行なっていることである。手印は仏や菩薩を象徴する手指の組み合わせであり、それらの手印で表した仏や菩薩を心に念じ、それらの仏や菩薩を称える真言または陀羅尼というサンスクリット語を口で唱えるのは、秘密仏教つまり密教の実践「三(さん)密(みつ)加持(かじ)」に他ならない。この挿話は神秘的な色彩を帯びているけれども、仏哲が密教僧であったことが描かれている。これは、8世紀の林邑仏教において、大乗仏教とりわけ密教が行われていた一端を示している。本稿1-2で言及した902年成立の「アーンターイ碑文」に、密教の信仰対象「金剛手菩薩」等の名が記されていることを考え合わせると、8世紀以降の林邑仏教は密教の影響下にあったことが窺える。

さらに注目すべきは、仏哲の活躍した場所が海上であり、さらにインドへ渡海したことである。このことは、多くのベトナム出身僧が海路東南アジア諸地域やインドへ赴いていた状況に相応している。義浄が唐の天授2年(691)に滞在中のスマトラ島パレンバンから中国へ送った『大唐西域求法高僧伝』巻上12には、

運期師は交州の人なり(中略)南海を旋廻すること十余年、崑崙音を善くし、頗る梵語を知れり。後に便ち俗に帰り室利仏逝国に住み、今現在にあり。(下略)13

とあり、現在の北部ベトナムに相当する交州出身の運期という僧は、南海を行き来すること10余年、東南アジア諸語を示す崑崙音や、サンスクリット語に堪能であった。還俗後は現在のスマトラ島パレンバン : Palembangを中心に栄えた室利仏逝国つまりシュリビジャ(Sri Vijaya)帝国[陳佳榮他1986 :129‐131]で、義浄が活躍した同じ時代まで居住していると記している。同じく『大唐西域求法高僧伝』巻上に、

智行法師は愛州の人なり。梵名は般若提婆、[唐(名)は云慧天と云う]、南海に汎(うか)んで西天に至る。(後略)14

とあり、現在のベトナム中部北境タインホア省に相当する愛州出身の智行法師は、南海に浮かんで西天つまりインドにまで至ったとある。彼は般若提婆(Prajãnādeba)というサンスクリット語の名前と、唐で使われる漢字の「慧天」という号も両方持っていた。これは智行法師が中国とインドで活動した人物であったことを示唆している。

このように7世紀末のベトナムの北部と中部から、東南アジアを挟んで中国とインドの両文化圏で活躍した僧を輩出していたのである。この現象は、唐代の中国と周辺国ならびに諸民族との間で盛んになった国際交流が、仏教界にも大きな影響を与え、義浄のような多くの僧が積極的に海外へ留学や布教を行った状況に沿うものである。そして、アジアの広範囲に及ぶベトナム僧の宗教活動が引き続き継続されていたことが、8世紀前半の仏哲の行動にも明確に反映されている。

チャム族の密教僧が中国文化圏にインド文化を媒介する活動は、ベトナム本国でも継続している。ベトナム僧の伝記集『禅苑集英』によれば、10~11世紀に北部ベトナムの長安15で修行し中部ベトナムで布教した摩訶禅師は、サンスクリット語、古代インドの民衆言語パーリー語と中国語の翻訳業務を世襲するチャム族出身の密教僧であった16

以上のように、インド、中国そして日本へ渡航した仏哲は、インド文化と中国文化の橋渡しの役割を、長期わたって広範囲に果たしてきたチャム族出身の仏僧を代表するものである。

3.2. 仏哲の悉曇教育

日本の奈良大安寺において仏哲は悉曇を教育し、これが日本人に日本語の音韻を自覚させ、日本語の50音図を成立させる基盤となったのである[小池2003/1995:126-128]。悉曇とは、古代インド言語サンスクリット語のsiddham:シッダムの漢字音写である。これは日本で梵語とも言い表されるサンスクリット語の文字体系の字母表や文字体系そのものを指す。

元禄15年(1702)に師蛮が編纂した日本人僧の伝記集『本朝高僧伝』巻二、の林邑沙門仏哲伝に、

釈仏哲は、林邑国の人なり。南天竺に入り、菩提僊那に従い、仏教を稟(う)けたり。(中略)哲は多く密部を持ち来たるも、今は悉曇章一巻のみなり17

と記し、仏哲が密部つまり密教経典を多く日本に持参したこと、その中の『悉曇章』という文献のみが一巻残っていることを伝えている。この『悉曇章』こそ、サンスクリット語の字音組織を習得させるための図表である。

残念ながら、この『悉曇章』は現存していない。しかし、平安時代初期の僧安然(あんねん)(841?~915?)が、元慶(がんぎょう)4年(880)に日本における早期の悉曇学をまとめた『悉(しっ)曇蔵(たんぞう)』全八巻の第三巻、章藻貝闕(しょうそうばいけつ)の条に、仏哲が日本で行った悉曇教育が記録されている。例えば、さまざまな悉曇文字の解釈が列挙される中で、当時すでに欠落していた章の存在が想定される箇所に、以下のような記述と割注([]内)が記されている。

或(あるい)は悉曇あり[人の云わく仏哲将来せりと]18(第23葉裏第3行)

このように、欠落していた悉曇の章の存在を想定する際、安然は仏哲が悉曇を日本に将来したことを述べている。同じく『悉曇蔵』第三巻、章藻貝闕に、密教の祖師である日本の空海(774~835)や中国の不空(705~774)によって記された梵字の引用に並んで、

或いは仏哲作れり19(第12葉表第8行、同第10行、同裏第5行、同10行、第13葉表第2行、同第4行、第10行)

と、この語句に次いで仏哲が記した梵字の列記がある。これは、仏哲がサンスクリット語表と共に、個々のサンスクリット語を日本で教育したなごりが残されている。

中村 元氏によると「悉曇が日本に導入されると、日本では50音図を成立せしめた。サンスクリット語の文字表においては、まず母音を教えるが、それが国語に導きいれられ、日本語にない子音は落として『アイウエオ』となった。次に『カキクケコ』、『サシスセソ』—はみなサンスクリット語の子音の順に国語の子音を整理したものである。」[中村 1958:7‐8][富田 1984:120]という。

以上のように、日本語の最も基礎的なカナ五十音を成立させた悉曇をもたらし、かつ教育したのは、他ならぬ仏哲であった。これは仏哲が会得した密教が、体系的なサンスクリット語学に裏打ちされたものであったことを示している。この仏哲の高度な密教の見識が、先に述べた龍王を呪縛したというような優れた呪術師としての神秘譚を生み出す背景になったと考えられる。

3.3.仏哲の舞踏と仏教の戒律

悉曇の将来と並んで日本における仏哲の事跡で著名なものは、既述のように東大寺大仏開眼法会における舞踏である。しかしながら、この行為を厳密に大乗仏教の戒律に照らせば問題がある。たとえば大乗経典の『観無量寿経』20に王舎城の阿闍世王が釈迦に礼拝して「願わくば慈悲を興して我に八戒を授けよ」21とある。この八戒について、中国浄土教の高僧である善導(613~681)が著した同経の注釈書『観無量寿仏経疏』22の観経序分義巻第二に、以下のような具体的な記載がある。

偸盗せず、婬を行ぜず、妄語せず、飲酒せず、脂粉を身に塗ることを得ず、歌舞唱伎せず往きて観て聴くことを得ず、高広の大床に上ることを得ずと。この上の八はこれ戒にして斎にあらず23

このように大乗仏教の主要戒律の第6戒と第7戒は、仏子が歌い踊り、またそれを見聞きすることを禁じている。またインド仏教の僧で、密教を基盤とした日本の真言宗第三祖でもある龍樹が著した仏教百科全書『大智度論』24巻十三では、仏僧が自ら歌い踊ること音楽を奏でることを以下のように戒めている。

諸仏の寿を尽くすまで、自らの歌舞し楽をなしたまわず、往って観聴した まわざりしが如く、我それがし一日一夜自ら歌舞し、楽をなさず、往って観聴せざるもまたかくの如し25

こうした大乗仏典に記す戒律から見れば、仏哲の舞踏は破戒行為とも見なされる問題である。そこで、本稿1-2で紹介したチャンパー王国の仏教極盛期に成立した西暦875年に作られた「ドンジュオンⅠ」碑文の内容から、この問題を再考したい。

「ドンジュオンⅠ」碑文のA面第9段落には「Indra神の呪文」、同第11段落には「このLingaは宇宙に屹立し、三世界の全ての人間に禍福を与える」のようなヒンドゥー教の信仰対象を讚仰する文面がある[Finot 1904:85,91][Lương Ninh 2004:283,284]。一方、B面第4段落では「Lokesvara(観音)の至上にして傑出した」という大乗仏教の信仰対象である観音菩薩を讚仰が記されている[ibid. 1904:88,93][ibid. 2004:286]。またC面第1段落では「Daruma(仏法)を荘厳するために僧院を一棟建立する」というインドラヴァルマン二世の仏法に対する寄進が記されている[ibid. 1904:89,95][ibid. 2004:289]。

このように9世紀のチャンパー王国は、ヒンドゥー教と仏教を同時に信仰しているのである。この複合信仰が、仏哲の舞踏を可能にしたと考えられる。つまり仏哲は密教の仏僧であると共にヒンドゥー教の行者を兼任していたのだ。従って、東大寺大仏開眼供養会における舞踏は、ヒンドゥー教の行者として行ったのである。また当時の日本の僧が戒律を盾に敢えて仏哲を非難しなかったのは、こうした状態を認識していたと推測される。

結論

以上述べてきたように、この仏哲は現在の中部ベトナムに存在した林邑国の人である。しかし、北インドに所在したチャンパーの出身とする説もある。しかし、仏哲の渡来時期における日本人が接し得たインド・東南アジアの地理情報の増加を考慮しなければならない。そしてさらに仏哲が日本で活動したほぼ同時代の770年に、しかも仏哲の師である菩提僊那の弟子修栄が撰述した碑文『南天竺波羅門僧正碑並序』が「林邑僧仏徹」と明記している。

さらに、仏哲の行動は、ベトナム僧が積極的に海外へ留学や布教を行っていた当時の実状にも符合するものである。義浄が著した『大唐西域求法高僧伝』には、7世紀末頃に多くの北・中部ベトナム出身の僧が東南アジアからインドへ渡航し仏教の修行や布教を行ったことが記されている。この状況は、唐代の中国と周辺国との間で盛んになった国際交流が、当時のベトナム仏教界にも大きな影響を与えていたことを反映している。そして、8世紀前半期における仏哲のインド・中国から日本へ渡来は、前世紀に引き続きベトナム僧の海外への行動が継続していたことを示すものと考えられる。

これら仏哲渡来前後の日本における海外地理情報の増加、同時代史料の既述、当時のベトナム仏教界の情勢を総合判断し、本稿筆者は仏哲の出身地をベトナム中部に位置した林邑国と推断する。

チャンパー仏教は、7世紀は上座部仏教、9世紀は大乗仏教の様相がありながら、その間の8世紀は史料上空白の期間があった。この8世紀のチャンパー仏教の空白を埋めるのが、日本における仏哲の事績である。

日本史料が示す仏哲の仏教は密教である。このことは、8世紀のチャンパー仏教が大乗仏教に変化していた状況の一端を示すものである。そして、日本における行動から、仏哲は密教僧とヒンドゥー教の行者を兼ねた宗教者であったと考えられる。さらに、仏哲がサンスクリット語や舞踏という現在の日本文化にも多くの影響を与えたことからは、彼は林邑国における傑出した知識人であったことが窺える。

この仏哲の多様な知識は、サンスクリット語というインド文化に留まらないものであったと思われる。なぜなら『大安寺菩提傳來記』などが記しているように、仏哲は師の菩提僊那と共に五台山へ参拝するために唐王朝治下の中国へ赴いていた。これは、彼らには中国語または漢文の知識もあったからであろう。

つまり仏哲は、インドと中国の両文化を積極的に摂取し、同時にそれを他の地域に伝播するという役割を果たした。こうしたチャンパー僧の密教とインド文化伝播の役割を、日本の史料によって最も古く確認できる人物が仏哲なのである。

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<注釈>

2 田中氏の説は、東大寺上院院主で東大寺福祉事業団理事長の狭川普文氏が、2014年10月23日にシェラトン・ハノイホテルで仏哲の事跡を含めて講演された時にも言及されている[狭川 2014: 4]。

3 『隋書』巻82、列伝第47、林邑伝に「人皆奉仏、文字同天竺」と記載されている。

4 『大正新脩大蔵経』Vol. 52、No. 2125所収の『南海寄帰内法伝』巻一にはこの表現は見えず、近似の文として「南海諸洲十餘国(中略)咸(みな)仏法に遵(した)がう。(原文[南海諸洲十餘国(中略)咸遵仏法])」とある。

5 () 内の書き下し文は、本稿筆者の付記である。

6 中国正史を顧みれば、『晋書』南蛮伝の林邑国の条文、『宋書』巻九十二の林邑伝、『隋書』巻八十二の林邑伝と中部ベトナム地域の国家を指す林邑伝のみが記載されている。このことにより、中国人は林邑をインドシナ半島に所在する国家であると継続して認識していたことになる。一方、北インドに同定される瞻波は、10世紀成立の『新唐書』に初めて記載される。

7 石田茂作著「奈良朝現在一切経疏目録」の『中阿含経』『法顕伝』『大唐西域記』『西域記伝』の日本伝来の情報は、大谷大学仏教学科教授織田顕祐博士の御教示を得た。記して謝意を表す。

8 石田茂作著「奈良朝現在一切経疏目録」により『南海寄歸内法傳』が天平11年(739)年以前に日本に伝来していたことの情報は、大谷大学仏教学科教授織田顕祐博士の御教示を得た。記して謝意を表す。

9 群書類従』第五輯、系譜部・伝部・官職部(塙保己一/続群書類従完成会)所収。

10 原文「于時聖朝通好発使唐国。使人丹治比真人広成。学問僧理鏡。仰其芳誉。要請東歸。僧正感其懇志。無所辞請。以大唐開元十八年十二月十三日。與同伴林邑僧仏徹唐国僧道珮隨船泛海。(中略)以天平八年五月十八日。得到筑紫太宰府。」

11 原文「此菩薩居住震旦之五台山、即欲尋詣彼山之比。北天竺仏哲、忽生到來也。此僧小学仏教、妙閑咒術神理標異領悟方機。為求如意珠、浮船大海、以咒龍王、々々降伏咒力。持出件玉告白、放汝手印、授与此玉矣。即順龍言、歘放手印、大風忽発、見吹寄南天竺矣。忽婆羅門以為吾師、共渉流沙遙踏嶮路、向于大唐到五台山。」

12 『大唐西域求法高僧伝』巻上:『大正新脩大蔵経』Vol.51、No.2066所収。

13 原文「運期師者、交州人也。(中略)旋廻南海十余年、善崑崙音頗知梵語。後便帰俗住室利仏逝国、于今現在。(下略)」

14 原文「智行法師者、愛州人也。梵名般若提婆、[唐云慧天]、汎南海至西天。(後略)」

15 長安: 現Huyện Yên Khánh, Gia Khánh, Gia Viễn và Yên Mô, tỉnh Ninh Bình [Lê Mạnh Thát 1999b: 461 chú thích (2)]この長安は、ベトナム初期独立王朝の丁朝(970~980)と前黎朝(980~1009)の都である華閭の別名である。973年に、丁朝の初代皇帝丁先皇の長子丁璉が仏頂尊勝陀羅尼を刻んだ石造の経柱を100基建立している[Hà Văn Tấn 1965]。仏頂尊勝陀羅尼は、これをを唱えれば全ての悪業を免れ長寿と富貴に恵まれるという密教の呪文である。この経柱建立は、当時の北ベトナムにおける密教隆盛の一端を示すものである。

16 [Lê Mạnh Thát 1999b: 262-264, chú thích (1)-(10), 516-521]

17 原文「釈仏哲、林邑国人、入南天竺、従菩提仙那、稟仏教、(中略)哲多持密 部来、今悉曇章一巻。」

18 原文「或ハ有悉曇[人ノ云仏哲将来]」

19 原文「或仏哲作」

20 仏説観無量寿経疏』:『大正新脩大蔵経』Vol.12、No.0365所収。

21 原文「願興慈悲授我八戒」

22 仏説観無量寿経疏』:『大正新脩大蔵経』Vol.37、No.1753 所収。

23 原文「不偸盜。不行婬。不妄語。不飮酒。不得脂粉塗身。不得歌舞唱伎及往観聴。不得上高広大床。此上八是戒非斎。」

24 大智度論』:『大正新脩大蔵経』Vol.25、No.1509 所収。

25 原文「如諸仏盡不自歌舞作楽、不往観聴、我某甲一日一夜不自歌舞作楽、不行観聴亦如是。」

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